近代日本の誇り

【近代日本の誇り】
ひつじ大学の副理事長である堀越一郎さんが亡くなった。
堀越さんは、ひつじ大学(NPO)の設立当初から、リーダーとして組織を支えて下さった方だ。
大学の大先輩でもあり、NPO活動や仕事の枠を超えたところで、個人的にも大事なことをたくさん教えていただいた(遊びのことも)。親代わりといってもいい。とくにポスドク時代や永田町を離れて後の浪人時代、私のことを心配して親身に面倒をみてくれたのはありがたかった。
若い研究者と話すのが大好きだ、君たちが好きだといって、よく一緒に映画をみたり、お酒を飲んだりした。調査旅行に行ったこともある。旧家の方らしく遊びかたにも品があった。
堀越さんのことを地元の方たちは「丸文さん」といっていたが、それは群馬県の第1期の県会議員、堀越文右衛門の子孫にあたるからだ。丸文株式会社というのが今もあるけれども、そこは親類で、堀越一郎さんが跡つぎであった。
明治12年ころ、県令楫取素彦が当選祝いで堀越家を訪ねた懐かしい写真が『写真で見る吉井町の百年』の表紙を飾っている(写真)。
多胡碑境内地を近代公園へと生まれ変わらせたのも、この楫取県令と堀越県議であった。そのことは本にも書いたので繰り返さないが、明治11年ころ、彼らは多胡碑のグローバルな価値に目をつけ、公園をつくることで、新生日本にふさわしい文化的景観を群馬にも創出しようとした。多胡碑の神社を解体して文化財から宗教色を除き、花を植えたり木を植えたり、新しい石碑を立てたり...そのために堀越文右衛門は多大な労力と資本を費したのである。
しかしこのとき、多胡碑を神として祀ってきた宗教者の白倉家は、ついにその伝統的な職務を解かれることになった。文右衛門が売得して、その居住地も公園に組み込まれたが、現在は鳥居の一部が井戸のふたになっているくらいであり、白倉家はその生活の痕跡すら残っていない。
周知の通り、ひつじ大学の理事長である私は、その池村の白倉家の末裔にあたる。しかし家の古文書によると、私の先祖がそこに住んでいたのは17世紀くらいまでであり、さいごまで多胡碑に残っていたのは遠縁の人たちである。上州八家の後裔を称したかれらは、馬庭念流の宗家と親戚になったりして一時はたいへんな勢力であった。羊太夫などについて特別の言い伝えもあったのだが、それも近代化とともに滅んでしまった。
そして実態がわからないままに、渡来人(新羅)の子孫やら、忍者やら、羊太夫やら、世間からいろいろなことを言われているのだ。
しかし、白倉氏は歴史的経緯に基づいて、これまで一貫して多胡碑を一族のものと主張してきたので、かつての繁栄を知る私には譲れない一線があった。私はかれらの執念を受け継いだ。
堀越さんもそのことはよく理解してくれたが、堀越文右衛門以来、近代日本の誇りを担った家の方であるから、原理主義で時折過激に傾きやすい私とは、考え方に多少の相違があったろう。
若いころ「直系でないのに、どうして今になって白倉家にこだわるのか?」と聞かれたたこともあった。私は譲らず、アイデンティティ政治を展開し続けた。
しかし堀越さんと私は、年齢や立場の違いを超えて、なぜか本当に気が合った。そしてよく遊んだ。本当は、若造を危なっかしく見ていたのかもしれないが、考え方の違いもまた、かえってひつじ大学を多様で豊かな組織にしたのかもしれない。私だけならたぶんうまくいかなかったはずだ。
じつは、博士論文に引用した白倉家から堀越家への土地売買証明書は、これまで内密にされていたのを、堀越さんが特別に私に見せてくれたのだ。不利な証拠なのに...そういう鷹揚なところがあった。
ひつじ大学をつくったときも、堀越さんと私は、この石碑と歴史的に深いつながりのあるたくさんの方々を、ひつじ大学の仲間として招いた。
白倉氏と関係の深い長野氏、小幡氏の後裔をはじめ、羊太夫信仰に関わる宗教者の末裔、公園建設の功労者の子孫、そして村の人々...中世まで遡って仲間を募った。
また、地域の歴史に関心をもつたくさんの方たちが、堀越さんを慕って集まってくれた。
歴史を振り返れば、多胡碑の利権をめぐって対立した人たちや、武器をとって戦った人の子孫までいる。そうした人たちがみな喜んで協力してくれたのも、ついに世界記憶遺産になったのも、みな堀越一郎さんの人徳のおかげだった。
私たちは歴史問題をひとつひとつ解決してきた。
これからもその道を貫いてゆこう。
しかし心のどこかで、堀越さんとともに私のなかの近代が終わった気がする。

【追記】
この写真の自動車について、「明治12年にはまだ日本に自動車がなかったのではないか」というご指摘をいただいた。まさしくおっしゃる通りで、書籍の解説に誤りがあるようだが、私はそれを知っていて、なぜかそのことをずっと忘れていた。堀越さんがお元気のとき、楫取素彦の写真は文右衛門の当選祝いのときではなくて、本当は...というお話をいただいていたのだった。しかし昔のノートを見てもそれがいつだったかわからない。故人を偲びつつ、記憶を辿ってみたいと思う。