清悦みたいな何か

多胡郡建郡1300年のイベント関係で、ぼくの故郷の町(伊勢崎市)でも、ちょっとした勉強会をすることになったよ。
詳しいことは未定だけれど、日にちは5月7日ということになっている。

ただ、伝説の話はあちこちで何回もしたから、今度は少し違うテーマにしよう。
例えば、「羊太夫」とその子孫という題目にでもして、この間ちょっと触れたルーツの話をしようかなと思っている。

太夫というのは伝説上の人なのだが、その子孫とされる家や集団が意外に多くある。
例えば「小幡」とか「多胡」を姓にする家がそれだとされていて、「羊神社」という神社まであったりする。

しかしこの「羊太夫の子孫」(らしい人)には、
�@系図や由緒などを創って、自ら「羊太夫」の子孫を自称するグループと、
�A他者から「羊太夫」=渡来人と看做されている(だけの)グループがあり、
この二つは、わりあいはっきり分かれている。
(それで、羊太夫の名称にも「小幡羊太夫」と「多胡羊太夫」の二通りがあるわけ)

また、これら二グループと並行して、�B「羊太夫」の墓=「多胡碑」を守っていた(らしい)山伏(みたいな何かとしか言いようが無い)の子孫がいて、これもまた、第三者からは「渡来人」と間違えられやすい人間だった。
高山彦九郎の「乙未の旅路」に出てきて、『多胡碑』の拓本を売っている人がそれだ。活字になっているからすぐ見つけられるだろう)

一般的には、�@�Aが知られていて、�Bは研究者が全然取り上げなかったから(明治大正くらいまでは政治的意図から。最近は単に単に忘れられただけ)『近世上野神話の世界』を書いたとき、ぼくが�Bのグループを見つけたのは割と話題になった。

しかし、ぼくがなんでそんなことを知っていたのかというと、「実は自分がその一族だった」というつまらないオチがあって(秘密にするほどのことではないけど、みんなあまり知らない)、その点では全然「発見」とは言えないのだった。


そんなことで、ぼくの「羊太夫」の研究は、色々な意味で何か微妙な「ネイティヴ民俗学」になってしまっている。

だから「羊太夫」の話を人前でするのは、まるで常陸海尊か、清悦みたいで変なんだが、

「でもやるんだよ」ということだろうね。

そういう意味で、ぼくはだんだん「羊太夫」になりつつあるような気がするよ。

ではまた。