羊太夫の子孫 続き(途中)

太夫の子孫と言われる �@�A�B だが、世間が渡来人云々を言うようになったのはつい最近のこと。

例えば、江戸時代に地元の人々に広く読まれた、羊太夫の物語(「羊太夫縁起」などの題名が付いている)などでは、

1、羊太夫は天人の子孫である
2、天津児屋根命の子孫である

と述べられているだけである。

普通の人の羊太夫イメージは、おおかたこんなところだったのだろう。

それが近現代では、いつのまにか「渡来人」になった。

その背景にあるのが「多胡碑」の発見だ。

多胡郡池村にあった「羊太夫の墓」。この墓が江戸時代の文人らに「発見」され、「多胡碑」と名付けられ、さらに「渡来人」と結びつけられるまでの顛末はいろいろな本に詳しいから、別にそちらを見てほしい。

「多胡碑」は、「多胡碑」でなかった時期のほうが長く、「羊太夫」も「渡来人」でなかった時間のほうが長い。


現代人は今の感覚で過去を見ようとしたり、現代と古代を直接つなごうとしたりする。そして、�@�A�Bは「渡来人」=「羊太夫」の子孫などと決めつけてしまう。
しかし、この問題についてより深く考えるなら、中世・近世の長い時間に思いを馳せてみたい。


とりあえずは、

1、人々はなぜ�@�A�Bを共通項で括るようになったのか

2、「「渡来人」の子孫」という分類が果たして妥当なのか



この2点について検討するのがよいだろう。

「渡来人」伝承に関心がある人は、
オーソドックスなものだが、まず入門用テキストとして、
柳田國男の「流され王」『一つ目小僧その他』(定本柳田國男集第五巻)を読んでおくといい。

最近の研究でもいろいろなものがあるが、それらはまた改めていずれ。