講演会の話の続き

「離山のあなたの家が、むかし『牛宿』とよばれていたのを知っていますか、私はKさんにたのまれて、田んぼを耕したことがありますよ」という方も会場にいらして、むかしの懐かしい夏休みをおもいだした。私の家は何代も前に他の町に出たが、離山に古いお墓があるので、お墓まいりと避暑を兼ね、本家のKさんを訪ねるのが毎年の行事だった。

Kさんは、若いころ東京でデザイナーをしていた人で、絵を描いていた私の祖父と親しかった。このおじいさんの家が、むかしの「牛宿」だ。「亀屋さん」「江戸家さん」というように、軽井沢ではみんなのことを屋号でよびあうから、「牛宿」といえば、もうやっていなくても、私たちの家のことになる。今も古い家の軒先のところに牛をつないだ輪がたくさんあるのが、昔の痕跡だ。古い家はレストランになっている。

ところで、会場から、「私たちはいつごろから、ふつうに『佐藤』という苗字をつかうようになったのでしょう」という質問が出たので、帰ってから考てみた。

例えば『諸国道中商人鑑』(文政十年)をみると、軽井沢の古い何軒かの旅籠屋が載っている。


金升屋、佐忠、京三度屋、亀屋、木曽屋などだが、これらが皆佐藤姓で、昔から縁がある家だ。しかし『商人鑑』では、屋号だけの場合、苗字を名乗る場合、両方併記、といろいろである。

ちなみに京三度屋は、『安中志』など、資料でよく見る佐藤六右衛門の家のことであり、亀屋はのちの万平ホテルだ。脇本陣の江戸家さんは、最近よくお会いするが、いま軽井沢で喫茶店をしている。
一番有名だった、軽井沢の佐藤本陣は、格式が高いからか、『商人鑑』には載っていない。

宣伝を見るかぎり、金升屋、佐忠、木曽屋も面白そうな旅館だが、私はまだ、それらの家の人と話したことがない。
金升屋は「まじめな宿」のイメージを前面に出しているし、佐忠は名物がある。木曽屋は荷物なども扱っていたらしい。

最近は東京に出ている家が多く、互いに屋号などは知って居ながら、会う機会がない人も多い。
冬は寒いから、夏だけ、軽井沢で過ごすという例もあるらしい。

ちなみに、佐藤姓の旅館の間で珍しい存在である「つちや」はおそらく土屋だ。「当処ニ二軒御座候」とあるが、いまは子孫ももっと増え、栄えているお店も沢山ある。

離山の親戚では、レストランのスコルピオーネ(イタリアン)が、土屋さんだ。『商人鑑』をみておもいだしたので、二軒あった「つちや」がどういう歴史をたどったのか、今度まわりの人に聞いておこうと思う。



講演会の様子(写真)